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日本教育の点からた情のなわり理の意

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作者简介:原林书(1969―),男,陕西蒲城人,渭南师范学院外国语学院讲师,日语语言文学硕士,主要从事日语话语分析以及历史文化研究。

要旨:本稿は神尾の情のなわり理を介した上、その理は我々中国を母国とする日本学者にとって、具体的にどんな示唆が与えるかを分析してみた。我々日本学者は情のなわり理を用して、来の日本文法教育とはった用の点から自分のしゃべっている日本が自然であるかどうかを判断することが出来る。

キワド:情のなわり理;日本教育;意

神尾昭雄氏の情のなわり理は主としてある与えられた情の持つなわりとそれを表する文形とのをう。

1.情のなわりの概念

情のなわりに属する情とは、してまたはき手が自己に属するものとみなす情、すなわち自分のものとみなす情である。「情のなわり理では、具体的な「ものだけでなく、「情のような抽象的象もまた人称的な世界区分のもとに把握され、そのことが文末などにおける的、形的な特として反映され得る,というをる。

その定は次の如く。

(1)し手またはき手と文の表す情とのに一次元の心理的距が成り立つものとする。この距は〈近〉および〈〉の二つの目盛りによって定される。

(2)〈Xの情のなわり〉とは(2)によりXに〈近〉とされる情の集合である。ここで、Xはし手またはき手とする。

(「情のなわり理p.21)

では、一般的に言って、どのような情がし手またはき手にとって情となるのであろうか。神尾は次のようなリストをげ,「一般に、情の性が以下の条件のいずれかをたしていれば、与えられた情はし手またはき手にとって、情となるとしている。

2.日本教育の点からた情のなわり理の意

では、神尾の情のなわり理は我々中国を母国とする日本学者にとって、具体的にどんな示唆が与えるかを考えてみよう。この理にしては、日本教育の点から、少なくとも次のような意を持っていると考えられる。

1)、自然的な日本の表を追及するのに、情のなわり理は大いに参考になる。

日本学者が日本でしゃべる、不自然なし方がよく耳にする。特に文末表の「よ「ねの用がげられる。神尾が述べた通り、情のなわり理における察象を文または文中の句がどのような状下で自然に用いられるかに限定したのは、用の性格にうものである。 その故、我々日本学者は情のなわり理を用して、来の日本文法教育とはった用の点から自分のしゃべっている日本が自然であるかどうかを判断することが出来る。具体的に、し手としては、自分が相手にえようとしている情はのなわりに入るかによって、当な文末表をらんで、相手にえるという程を通してから、より自然な日本のとなることが出来ろう。

2)、好まれる日本をしゃべるには、できるだけ情の独占を避けよ。

以上の明により、日本では、直接形自体が情の独占化を示すという役割を担っていると考えられる。情のし手による独占化は一般日本文化の下では好ましい印象を与えない。中国とは照的に、日本では直接形を避ける向がいのはこのためと考えられる。また、日本では直接形を用い得る状でも、直接形そのものを避けるような表が多用される。例えば、

(1)a.今日はこれでりますから。

b.そんなことがないが。

これらは副もしくは等位を形成する文末形が、あまり明な意味を表していない、にはそれ自体で文を完するかのように音される。このの疑似直接形は(2)のような明な直接形に比べて、

(2)a.今日はこれでります。

b.そんなことがない。

情の独占化のきが明らかに弱く、したがって、あからさまな主という印象を与えない。(1)の疑似直接形が多用されるのはこのためであろう。Aの合に任意的な「ねを付加されることが多い。例えば、

(3)X:うちの子、大学は理でしょうか。

Y:a.理です。

b.理ですねえ。

(4)の合、母は「息子が大学に合格するのは理であるという情を持っておらず、教はこの情をなわり内に持っているので、直接形で答えることが出来る。しかし、直接形そのものである(3Ya)は、情の独占化をあからさまに示すにべもない返答である。これにして、(3Yb)で用いられる「ねは独占化の印象を打ち消すと共にし手とき手の心理的一体感を感じしめるきがある。明らかに(3Yb)の答えの方が日常好まれるのはこの理由による。

日本において、日常直接形が最もされやすいのは比的公式的な答の答としてである。典型的な例は入社や入学における口である。この合、答えが正しいか否かにはわりなく、直接形であれば自然であり、接形や、直接ね形は不自然である。

以上の考察に基づいて、日本の直接形の用法について、用的な丁さの原を求めることが出来る。つまり、状のす限り、直接形は避けよ。

中国は日本と比べると、直接的な表は多く、中国を母国とする日本学者にとって、母国のから、日本のにうのは、ある程度の切り替えが必要であろう。この点にしては、神尾の情のなわり理は大いに参考になるだろう。

3)、情のなわり理は日本を教授するにも参考になれろう。

例えば、の「ようだ「そうだ「らしいなど、神尾のいわゆる接形を教授する、情のなわり理を用して明するのは果的であろう。

日本では、それがであることをからみ取れるにもかかわらず、「そうだ「らしい「ってなどのの言化が的になっている。一方、中国では、の意味をの流れから解できる合、わざわざの意味を表すを言化しなくてもよいのである。そのため、内容が他人の心的状にわる情である合、中国ではあたかも他人の心的状を直接言及しているようにえてしまうのである。例えば、

(5)X:小王呢?

(王さんは?)

Y:他不想见你。

(a.??君に会いたくない)

(b.君に会いたくないそうだ。)

(6)られるように、(4Ya)の表は明らかに中国原文の直接形が日本にされ、あたかも「王さんがXに会いたがらないではなく、し手自身のことを述べているようにこえ、解を引き起こしやすい。この合、中国原文の直接形が日本にすとき、「そうだというモダリテイ形式が付けられていて、当であると思う。このような母国の影をくすため、情のなわり理を用して、教授法に使えば、学生のほうがはるかに理解しやすいし、果的であろう。

神尾の情のなわり理は、日本の文末形式とのが大きくクロズアップされている。し手はある情をえようとするときに、自分がその情にして、どのぐらい知っているかを判断するのはもちろんのこと、き手の状についての想定も必要である。すなわち、き手が当情について、どのぐらい知っているかを想定した上で、当な文形をんで、そこで情をえる。この点にして、情のなわり理は日本教育の点から大意があることである。

基金项目:渭南师范学院科研项目(09YKZ041)

参考文献:

[1] [日] 泉子・K・メイナド.会分析 [M].东京: くろしお出版,1992.

[2] [日] 神尾昭雄.情のなわり理――言の能的分析[M].东京:大修店,1990.

[3] [日]神尾昭雄.・情のなわり理[M].东京:大修店,2002.

[5] [日]益隆志.モダリティの文法[M].东京:くろしお出版,1991.